自分的「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」感想&メモ
- nova
- 2020年11月8日
- 読了時間: 20分
この記事は、映画を見て感じたことをつらつらとメモする場です。
ですので、どんどん思ったことを追記していこうと思っています。
当然重度のネタバレを含みますので、もし映画をまだご覧になられていないならば、読まないことを推奨します。。。
【Sincerely】
この映画は、「Sincerely」という言葉で始まりました。
Sincerelyとは、このアニメのOP曲のタイトルであり、「心から」という意味ですよね。
ですが、「Sincerely」にはほかにも意味がありまして、日本でいう「敬具」というものです。
手紙が大事な要素であるこの物語の結末にふさわしい言葉ですが、この言葉、映画の冒頭に出るじゃないですか。
実際のこの映画の最後に映されるのは、「愛してる」という言葉です。
Sincerelyは結びの言葉ですので最初違和感を覚えたんですけど、この演出はつまり、
冒頭に繋がっているということなんだと解釈しました。
並べ替えますと、
「デイジーが両親に言葉を送る」(現在パート)
↓
「愛してる」
↓
歩くヴァイオレット(過去というか心象風景?)
↓
「Sincerely」(愛してると直接つながっており、ここでヴァイオレットの物語は終了)
↓
歩くヴァイオレット(同じく心象風景?)
↓
祖母宅でのデイジー(現在パート)
と挟み込むような作りになっているのだと思います。
つまりこの作品は、ヴァイオレット目線からすると、ラストカットである「Sincerely」から始まっているということなのではないでしょうか。
更に言うと、これらの言葉を最初と最後に配置することで、この劇場版を通して、
「Sincerely(心から)」「愛してる」が完成、ようやく言えた、となるのだと思います。
【「現在」と「過去」】
物語は、TVシリーズ10話のアンが年老いて亡くなった「現在」を、アンの孫であるデイジーの視点を通して始まります。
これは、時間軸を「映画を視聴する僕ら」に合わせることで、
「自動手記人形(ヴァイオレット)は過去の存在である」
と突きつける意味があるのだと思います。
TVシリーズを見ているとき、視聴者はヴァイオレットと同じ時を過ごしているかのように作品を見ている人が多いと思います。
しかし、現在を生きるデイジーたちを描写することで、視聴者に時の流れを突き付けてきます。
更に、「彼女は18歳で仕事を辞めて以来、記述はない」というデイジーの冒頭の語りも、ノスタルジックに拍車をかけます。
このデイジーの語りの最中、外伝で建設中だった電波塔が完成していたりの描写も見事ですよね。
また、ヴァイオレットの時間軸に限っても、
ギルベルトらの母が既に亡くなっていることに始まり、エリカが舞台作家の弟子になっていたり、開幕から時の経過と変化を感じさせます。
視聴者に「ヴァイオレットはもう死んでしまっているかもしれない」という儚さを思わせているのだと思います。
特に大事なのは、電話の登場です。
電話が登場したことで、自動手記人形は仕事を追われたのではないか、と思わせるわけですね。
この辺りでは、直後の電気照明の描写や電波塔の存在感もあって、CH郵便社自体に栄枯盛衰を感じさせます。
様々なものが変わりゆき、なくなることもある。
その一方で、変わらないもの、大事なものがしっかりと描写されています。
それこそが、「想い」です。
デイジーは現在を生きる女の子ですが、抱える悩みは「母親が大変であることも分かっているが、きつく当たってしまう」というものです。
TVシリーズでヴァイオレットが学んだ、「裏腹」「人の言葉には表と裏がある」というものですね。
時代が変わっても、「想い」は複雑で、伝えることは大変で、だからこそ尊いということがしっかりと描かれています。
手紙を通して、最後に両親に「ありがとう」を伝えられたことは今作でも屈指の名シーンだと思います。
【手紙と電話】
・アイリスは、電話の登場で自動手記人形は仕事を奪われるかもしれないと語りました。
物語を作るうえでは、自動手記人形である主人公たちからすれば
「でも手紙の方が電話より優れてる!」
という物語にしたいところではありますが、この作品では電話はとても大事な大活躍をしました。
ヴァイオレットがユリスと交わした約束には、「親友であるリュカへの手紙も書く」というものもありました。
しかし、距離的な問題からヴァイオレットにはその遂行が難しく、また、手紙を準備する余裕がないほどユリスは衰弱していました。
ヴァイオレットの代わりに、アイリスはどうにかユリスとリュカの会話を実現させようとします。
そして、病院備え付けの電話と、優しい裕福な家庭が貸してくれた電話を繋ぎ、ユリスとリュカは最期の会話をすることができました。
ここで描かれる電話に関する大きな要素は2つです。
1つは、「大事なのは想いを届けることであり、手段は問わない」ということ。
そしてもう1つは、「C.H郵便社のチームワーク」です。
映画序盤で、アイリスは自分を指名しなかったお客様に対して、電話越しの応対の声に残念な気持ちが乗ってしまっていました。
アイリスは、電話に関して「態度は見えません」と言いますが、カトレアから「想いは声に出る」と諭されます。
ここでは、その経験を活かして手紙にこだわらず電話を利用したわけですね。
この時のアイリスは、「手紙であること」にこだわらず、「想いを届けること」を第一として動きました。
想いを届けること、それこそが一流の自動手記人形であると示さんばかりに、ブローチがアイリスの胸元で輝いたのが本当に素晴らしく、美しいと思います。
そして2点目ですが、
ユリスの想いを届けようと手紙をしたためたヴァイオレット、
モールス信号で連絡を取ったホッジンズ、
車を走らせ、電話を持つ裕福な家庭に頼み込んだベネディクト、
そしてそれらを繋いだアイリス。
出張に出ていたカトレアは残念ながらいませんでしたが、C.H郵便社が子供が相手と手を抜かず、「想い」を届けるために奔走した。
素晴らしいチームワーク、素晴らしい会社だと思います。
ここまで電話について書きましたが、手紙は当然今作も大活躍です。
アンに宛てられた冒頭の手紙は、形に残るものだったからこそデイジーが読むことができたし、アン自身も何度も読み返したはずです。
また、細かい話ですが、手書きだからこそ、ギルベルトの筆致ではないかとの疑問が生まれ、ギルベルト発見に一役かってもいますよね。
【ユリスという少年】
この映画で最重要人物と言っても過言でないのはユリスだと思います。
彼の存在や言動がヴァイオレットに大きな影響を与えているからです。
映画では、「マグノリア一家の今」がデイジーを主体として絡ませてありますが、これはただ感動するエピソードの家庭を選んだわけでないと思います。
最大の理由は、マグノリア家とヴァイオレットの関わり方が、この映画でのユリスとの関わり方と近かったためだと思います。
「病気で亡くなった人が生きている人に宛てる手紙」を代筆するという点です。
しかし決定的に違うのは、クラーラ・マグノリアからアン・マグノリアに向けて書かれた手紙が、アンのことを案じつつも導く「プラス」な性質の手紙であるのに対して、ユリスから家族に宛てられた手紙、そしてリュカへの電話は、「マイナス」な性質も持つものであり、「遺書」に近いものであるということです。
「野菜をもっと食べたら、お母さんは喜んだかな」「僕の分も、お父さんとお母さんを大切にして」「会いたくないって言って、ごめん」
ユリスのこうした言葉には、後悔と悲しみがダイレクトに乗っています。
悲しい性質の手紙はTVシリーズの11話などにもありましたが、ユリスが幼いこともあり、非常にやるせなく、悲しく、真に迫ったものがあります。
このユリスの死は、ヴァイオレットの心をとても揺さぶります。
想いとは、伝えられることで双方向になるもの。
「ありがとう」と言われたら、「どういたしまして。こちらこそ」と返したいものです。
しかし、人の死というのは、その人自身の「想い」も、その人に対して言いたかったり返したかったりした他の人の「想い」も、永遠に返せなくなるということです。
奪う経験も奪われた経験もあるヴァイオレットは、ユリスから遺書の依頼をされた時、どんなに辛く切なかったでしょうか。
その依頼は絶対に遂行しなければならないという使命感が、そこにはあったはずです。
この使命感は、ユリスが危篤になった時、ギルベルトに会えずとも無理にでも帰ろうとした原動力にもなっています。
またこのときのヴァイオレットは、その使命感だけでなく、自分の存在自体がギルベルトを傷つけていると知ったことで、「ギルベルトと会わない方が彼のため」という理性的でギルベルト第一な考えと、ギルベルトに拒絶された辛さから逃げ出したいという隠された気持ちも相まって、今回の映画で最もヴァイオレットが追い込まれた瞬間になっています。
見ていて心が締め付けられるような思いでした。
また、演出的な話になりますが、ユリスの弟に宛てる手紙を書くとき、ヴァイオレットは
「生まれたときは嬉しかった、でも母親を取られたように感じたりした、だけど後ろからついてくるのは可愛かった、と感じたのでは」
と語ります。
それに対してユリスは
「何でもわかんだね」
と応え、ヴァイオレットは
「聞いたことがあります」
と返します。
その時に画面に映されたのは、ヴァイオレットの髪どめのリボンでした。
これは、この映画でヴァイオレットが落としたリボンを返しに来てくれたディートフリート大佐のことを示すのだと思います。
つまり、「生まれたときは嬉しかった、でも母親を取られたように感じたりした、だけど後ろからついてくるのは可愛かった、と感じた」
という一連の感情のことは、もともとディートフリートから聞いたものだということです。
同じ兄として、ユリスとディートフリートが弟に対して抱いていた共通の想いであるということなのだと思います。すごく繊細な表現ですよね。
一方、ユリスとリュカの最期の電話では、リュカは
「ユリスが会いたくないって言うからその方がいいと思った。
でも無理やり下まで会いに来た。
そしたら窓から少しユリスが見えた」
と語ります。
こちらは、ユリスとリュカの関係がそのままギルベルトとヴァイオレットに重なります。
それぞれの想いには共通点があり、普遍であると示しつつ、
帰らぬ人となってしまったユリスと違い、ギルベルトは生きているのだから、想いは伝えなければ、と視聴者に刻むとてもうまい見せ方だと思います。
(これは更に憶測ですが、序盤に、もしかしたらギルベルトかも?という男性がスミレを見て「ヴァイオレット」と呟くシーンがありますよね。
それに対して、少年が「それはパンジーだよ」と言います。
このシーンの直後に、背を向けた子供(ユリス)がヴァイオレットに電話をかけるシーンを持ってくることで、視聴者に
「もしかしてヴァイオレットがこの子供達を通してギルベルト(?)と再会する!?」
と期待させ、次のシーンを待ち遠しくさせるミスリードだったのではないかと思いました。)
【水】
この映画にはいろんな「水」がたくさん出てきます。
それぞれにしっかりとした役目が持たされていると思うので、以下にまとめてみます。
・映画冒頭から海が出てきます。ヴァイオレットが海を讃える奉納文を納めますが、
ここでは、「海は恵みであり広く受け止めてくれるもの」と示されています。
・中盤、大雨と風がエカルテ島を襲います。
ここでは、強く打ちつける風雨が、ヴァイオレットに降りかかる苦難を示しています。
また、その際に地面に流れる水が二手に分かれているのは、ギルベルトとヴァイオレットの悪い今後を視聴者に想像させます。
・エカルテ島のギルベルト宅を訪れたヴァイオレットとホッジンズ。
ギルベルトは屋内でスープを沸騰させています。
この「沸騰」という描写は、表向き冷静でヴァイオレットへの気持ちがなくなってしまっているように見えるギルベルトの心の内側、
「やっぱりヴァイオレットに会いたい、そして色々と話したり、謝りたい」
といった溢れんばかりの想いの発露だと思います。
・ユリスが亡くなった後、ヴァイオレットが流した一粒の涙は白い絨毯に落ちますが、染み広がらずにそのまま残ります。
これは、TVシリーズ終盤で、ヴァイオレットの涙がスミレ(ヴァイオレット)の花を通して紫色に光ることとの対比だと思います。
ヴァイオレットの涙が紫ではなく、ここでは無色透明に描写される。
それは、彼女自身が「ギルベルトと会いたい」という気持ちを押し込めてしまったことを示しているのではないでしょうか。
・ユリスが亡くなり、ギルベルトから拒絶される。
そんな苦難ののち、ヴァイオレットは、ギルベルトに会わずに仕事に戻るという悲しい決意をします。
そして、そんな苦難の象徴であった、エカルテ島を襲った風雨が去ります。
すると、一気に晴れた空の下、笑顔の子供達が外を駆け出し遊びだし、収穫時期を迎えた葡萄がみずみずしく輝きます。
それは、あの風雨はまるで恵みの雨だったのか?と感じさせるほどです。
ヴァイオレットの悲痛な決意の後のこの展開は、ヴァイオレットとギルベルトが会えず悲痛に満ちた視聴者との感情にズレを起こさせます。
「会えないことが正解なの?なんかモヤモヤする...…」
という気持ちです。
このまま終わっちゃうのか??というモヤモヤが、最後のハッピーエンドに効いてくるわけですね。
・エカルテ島を離れる船にホッジンズとヴァイオレットが乗り込んだ後、船とエカルテ島の間に横たわる海は、ここでは大きな断絶を意味するのだと思います。
きっと、ここでギルベルトが走り、彼女の名前を叫ばなければ、ヴァイオレットとは二度と会えていなかっただろうことを示しているのだと思います。
【花】
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という作品において、花には大きな意味があります。
なにせ、登場人物全員の名前に花の名前が入っていて、その本人の人となりを表しているほどです。
主人公であるヴァイオレットの名前にももちろん花の名前が入っています。
ヴァイオレット(和名ではスミレ)、特に紫色のスミレの花言葉は
「貞節、愛、小さな幸せ」
だそうです。
映画中盤で、ギルベルトと会ってきたホッジンズとの会話中にスミレが萎れかけているシーンがありますが、それはそのままヴァイオレットに影が差すことを示していますし、
そして何といっても、ギルベルトが「その名に相応しい人になれ」とヴァイオレットに託した花の名前です。
"愛"と名付けられた少女は、今回の映画で遂に愛を見つけ、伝えることができたのですね。
やばい泣きそう。
・ブーゲンビリアの花言葉は
「情熱、あなたしか見えない、あなたは魅力に満ちている」
だそうです。
ヴァイオレットに、少女としての、また女性としての魅力を気づかせようと試みたギルベルトらしさを感じさせますが、今回の映画では、ディートフリートの過去回想で、兄弟と父の3人で散策中、ブーゲンビリアの花が登場します。
父は、2人の息子に「うちの花だ」とブーゲンビリアを示します。
この時のブーゲンビリアの花は、おそらく「情熱」を示すのではないでしょうか。
つまり、父は2人の息子に
「戦うのではなく、自分の情熱があることをやれ」
と示したかったのかもしれません。
しかし、このときディートフリートは、
「花ではなく軍を見せたかったんだ、お前たちは軍に入るしかないと言いたいんだろう!」
と解釈して父にぶつけてしまいます。
真意を真逆に取られたからこそ、父親はディートフリートに手をあげかけたのではないでしょうか。
・ほかにも、ユリスの病室にある花など、考察してみたい部分は多々ありますので、次鑑賞するときは細心の注意を払って観たいと思います。
【キャラ別所感】
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」
押しも押されぬ主人公。
清楚。無垢。絶世の麗人。最強。鋼鉄の両腕。誠実。生真面目。いじらしさの権化。
危うさと儚さと、強さの同居。
ヴァイオレットを語るうえで、何から話せばいいのでしょうか。
名前よりも先に、銃を与えられた少女。
戦うことのみが存在する意味であり、意義であり、無垢で透明ゆえにそれを実直にこなした。
ギルベルトに名前を与えられ、たくさんのことを教えてもらい、「愛してるを知りたい」という生きるための「みちしるべ」ももらった彼女は、ギルベルトがいなくなった時の中で、奪ったことと奪われたことに向き合い、そのうえで、「少佐はどこかで生きていると信じています」と考えていました。
その祈りは、この映画でついに叶いました。
自動手記人形として働き始めた当初、ヴァイオレットは
「人の想いには裏腹で、私には難しい」
と語りました。
そんな彼女が、この映画では、ギルベルトに最後に宛てた手紙で裏腹な想いを紡ぐのです。
ヴァイオレットとギルベルト、裏腹な想いを抱えた両者を指して、ディートフリートは「皆、素直になれないものだな」
と独り言ちます。
この言葉のなんと嬉しいことか。
この期に及んで、ヴァイオレットを感情のない人だと、誰が言えるでしょう。
ギルベルトの話を島の子供たちから聞いて笑顔を見せる彼女を、
ユリスの死に涙を流す彼女を、
ギルベルトからの呼びかけに、船から身を乗り出し、冷たい海水に身を投げ出した彼女を、
ギルベルトとの再会に、言葉が出てこなくて涙を流し、太ももを叩いて己を叱咤する彼女を、
誰が感情のない人だと言えるでしょうか。
ヴァイオレットは、たくさんの出会いと別れを経て、「愛」というその名に相応しい少女になりました。
エンドロールで、ユリスから教わった「指切り」をギルベルトと交わしています。
一体どんな約束をしたのでしょうか。
「伝えることの尊さ」を紡いできたこの物語が唯一伝えなかった、美しい指切りだと思います。
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「ギルベルト・ブーゲンビリア」
回想ばかりの登場だった彼が、ようやく生きた姿をがっつりと見せてくれます。
まずは、「生きていてくれてよかった」と思います。
ギルベルトは死んでいても良かったのでは?映画は蛇足では?
と感じる人もいると思います。
ですが、TVシリーズの最後、ヴァイオレットのスタンスは
「ギルベルトがいないことを割り切って生きる」
ではなく、
「どこかでギルベルトが生きていることを信じる」
でした。
ずっと待ち続ける終わりもアリだとは思いますし、大勢を殺したヴァイオレットが幸せになっていいのか、という考えもあると思います。
しかし、その辺りに関してはTVシリーズ9話までの解決と、終盤の「これからのヴァイオレットの命への向き合い方」で示されていたので、色々と意見があるとは思いますが、僕としては、ギルベルトが生きていて、ヴァイオレットと結ばれたというこの終わり方には満足していますし、誠実な作品の作り方だと思います。
話を戻してこの映画でのギルベルトは、ブーゲンビリアの当主であることなど、自身にまつわる全てから逃げ、元敵国で現在はライデンの勢力下であるエカルテ島にて、自身をジルベールと偽って暮らしています。
そうして、祖国から半ば背を向けた生活を送っていた彼ですが、生来の真面目さもあり、大勢の命を奪った罪の意識は消えませんでした。
仲間が、もしくは自分自身が命を奪った兵士たちの遺族が暮らす島に、彼は住んでいるのが、その理由だと思います。
本当に逃げるのであれば、自国でも敵国でもなかった地に向かうはず。
しかし、彼は身分を偽りながらも、遺族が暮らすその島に向かったのです。
ここに、ギルベルトの人となりが見える気がします。
罪の意識に苛まれた彼は、その罪の意識を少しでも減らしたいという贖罪の想いがあったのかもしれません。
そうした自分本位の感情も少しはありつつも、やはりギルベルトは、自分のためではなく、他人のためにこれからの命を使いたい、そして使うのならば、自分が不幸にしてしまった相手。
という考えもあったように思います。
だからこそ、その世界には精巧な義手が存在するにも関わらず、右手を失くしたままにしているのではないでしょうか。
エカルテ島で過ごすことは、ギルベルトにとって、贖罪であり、自罰なのだと思います。
また、右手を失ったままなのは、自分の右腕的存在であったヴァイオレットの喪失をも意味するのではないでしょうか。
ギルベルト宅を訪れたヴァイオレットとの会話にて、失われた右腕がはっきりと描写される一幕があります。
その一方で、ヴァイオレットとギルベルトの固く握られた左手がだぶるように描写されもするのです。
両者ともに腕を失いましたが、その欠落を抱えて生きる選択をしたギルベルトにも、様々な想いを馳せてしまいます。
また、エカルテ島を訪れたヴァイオレットとホッジンズの前に、門がありました。
ヴァイオレットがホッジンズの制止を振り切ってギルベルトを探して駆けだすシーンでは、片方だけ開いた門が描写されます。
これは、心を開くヴァイオレットと、心を閉ざしたギルベルトを表現しているのではないでしょうか。
少なくとも、門が全開でないことは、この先のヴァイオレットに待ち受ける困難を予測させます。
ギルベルトは、エカルテ島で収穫したブドウを運ぶ設備を作りました。
このブドウは、エカルテ島において恵みの象徴であるとともに、ギルベルトにとってはどうしても思い出してしまうものを連想させます。
それはもちろん、ヴァイオレットです。
「ヴァイオレット」はスミレのことですが、当然色を表す単語でもあります。
ギルベルトは、紫色のものを見るたびに、彼女のことを思い出してしまうのです。
ヴァイオレットにあげたブローチのように丸いだけでなく、紫色の皮を一枚剥けば、緑色(ギルベルトの色)が顔を出す、というところまでモチーフにしたかは定かではないですが、ギルベルトがブドウを見るたびに彼女のことを思い出していたことは想像に難くないと思います。
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「クラウディア・ホッジンズ」
間違いなく今回大きく活躍した一人だと思います。
これまでの立ち位置や、ベネディクトからヴァイオレットに対して「過保護」と称されたこと、ヴァイオレットとディートフリートの関係の話をしたあとに「子供は男の子がいい、女の子は気が持たん」と言うなど、ヴァイオレットにとって父親の代わりを果たしていました。
ギルベルトらしき筆跡を見つけたことをヴァイオレットに伝えるシーンでは、
「確証はないが..….」
と言い淀みます。
この声の抑揚や間の取り方、揺れる瞳から、
「これはヴァイオレットちゃんに早く伝えなければならない」
「でももし違ったらヴァイオレットちゃんを悲しませてしまう」
「もし本当にギルベルトだったら、ヴァイオレットちゃんはここから離れてしまうのではないか」
といった、色んな思いが駆け巡っているところが丁寧に描かれていたと思います。
また、ドア越しに「ギルベルトが本当に生きていた」と知った瞬間、カメラが90°回転しますが、この演出は、
「死んだ人が生き返る、つまりホッジンズの中で死んでいたギルベルトが生きていたと認識が変わること」
を示すのだと思います。
その心の動きや、ギルベルトの気持ちを考えてのその後のヴァイオレットへの対応など、ヴァイオレットとギルベルトを大事に思っているからこその深い配慮が見えて、作中でも特に「大人」として描かれていたと思います。
そんなホッジンズだからこその「大バカ野郎」という色んな想いの籠った叫びは、聞いていて涙が出るほど。
一緒に乗っていた船をヴァイオレットが飛び降りてギルベルトの所に駆けていくシーンは、娘が親元を離れて愛する人と一緒になることを思わせますし、
電波塔が完成して花火が上がる最後のシーンでは、ヴァイオレットとギルベルトが一緒になったことを祝福する花火である一方で、ホッジンズの隣にもうヴァイオレットがいないことを実感して涙してしまう対比が効いています。
とても深く、一個の人間として成立した素晴らしい人物だと思います。
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「ディートフリート・ブーゲンビリア」
TVシリーズでは憎まれ役だった彼ですが、映画では、ギルベルトを失った共通点からヴァイオレットと共鳴しており、
「ヴァイオレットは過去(ギルベルト)を忘れて今(ディートフリート)を生きるべきでは」
という1つの未来も示されています。
ホッジンズから胸ぐらを掴まれた時の部下の対応や、ヴァイオレットからの護身術を食らった時の対応など、皮肉屋ではあるが部下からの信頼篤く、時と場を理解する人物であるという描写が増えています。
弟であるギルベルトへの想いも語られ、船の中でのヴァイオレットとの帽子の一幕など、様々な人間味も見えてきて、映画で評価が変わった人も多いのではないでしょうか。
結局、ディートフリートは、この映画でヴァイオレットを認め、ブーゲンビリアは自分が継ぐからお前は自由になれとギルベルトに発破をかけます。
前述したように、ギルベルトに会ったら話したいことや謝りたいことなど、色々あったはずの人が、自分のことを優先せず、ヴァイオレットとギルベルトのために口を閉じ、発破をかけたのです。
この覚悟、とても素晴らしく尊いものだと思います。
ディートフリートとは、ドイツ語で「民を守るもの」といった意味も持つようですが、まさにその名に相応しい人になった瞬間だったと思います。
余談ですが、僕が手に入れた来場者特典のコマフィルムは、ギルベルトに対して「麻袋に詰めてヴァイオレットの前に放り出したい気分だ……!」と言い放つディートフリートの表情でした。いい……
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「エリカ・ブラウン」
CH郵便社を辞めて劇作家の卵になっていた彼女ですが、おそらくこの映画で立場がトップクラスに変わった子ではないでしょうか。
見た目もきらびやかな自動手記人形服ではなくなったものの、自分のやりたいことに突き進めていて、いきいきとした笑顔を見せるようになった彼女は、ヴァイオレットに「変化すること、一歩踏み出すことの大切さ」を教えてくれます。
また、ベネディクトを好きだった彼女ですが、今回はアイリスとベネディクトの口論を一歩引いたところから見ています。
これは、自分の「恋心」と「やりたいこと(作家)」を秤にかけて、「やりたいこと」を選んだことを示すのではないでしょうか。
この点は、C.H郵便社を引退してギルベルトと一緒に添い遂げることを選択したヴァイオレットとも対比されているのだと思います。
ヴァイオレットの選択も、エリカの選択も、どちらも間違いなどではないと示してくれますね。
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